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2008年02月25日

ケルト人とロンドン

この前テレビで見ていて凄く興味を持ちました。


世界トップ水準の世界都市であるイギリスの首都は、イングランド南東部、テムズ川下流部沿いに位置する。世界の政治・経済・文化の中心地で、ニューヨーク、パリ、東京とならぶ世界四大都市のひとつにかぞえられ、シティの金融市場はニューヨーク、東京と並び世界三大市場の1つとされる。 都市圏は比較的平坦な土地に広がっており、その中心部をテムズ川が西から東に流れている。ヨーロッパにおいても有数の歴史ある都市であり、中世および近世に建設された建造物が数多く残っている。他国の多くの首都と同様に、ロンドンの首都としての地位を明示した文書は存在しない。物価の高さは東京を上回り、世界有数である。2005年時点での大ロンドンの人口は742万人、ロンドン都市圏では1200万人と、欧州連合において最も人口が多い都市である。

ロンドンは、「シティ・オブ・ロンドン」あるいはたんに「シティ」とよばれる地域を発祥の地として大きく発展した都市で、このシティと周辺の32のバラ(自治区)でグレーター・ロンドンを構成する。グレーターロンドンのうち、シティおよび都心部の13区はインナーロンドン、その外縁部の19区はアウターロンドンとよばれる。グレーターロンドン全体を管轄する広域自治体として1965年にGLC(グレーター・ロンドン・カウンシル)が発足したが、1986年にサッチャー政権の地方行政改革により廃止。かわって、イギリス初の公選市長(メイヤー・オブ・ロンドン)と議会で構成されるGLA(グレーター・ロンドン・オーソリティ)が2000年に設置された。シティは、中世から自治組織をもち、ロード・メイヤーとよばれるロンドン市長を選出してきたが、現在ではシティの「市長」は名誉職的なものになっている。
ケルト人(ケルトじん、the Celts)は中央アジアの草原から馬と車輪付きの乗り物(戦車、馬車)を持ってヨーロッパに渡来したインド・ヨーロッパ語族ケルト語派の民族である。古代ローマ人からはガリア人とも呼ばれていたが、「ケルト人」と「ガリア人」は必ずしも同義ではなく、ガリア地域に居住してガリア語またはゴール語を話した人々のみが「ガリア人」なのだとも考えられる。ブリテン諸島のアイルランド、スコットランド、ウェールズ、コーンウォル、コーンウォルから移住したブルターニュのブルトン人などにその民族と言語が現存している。 現在のケルトという言葉は言語・文化の区分を示すための近現代になってから作られた用語であり、古代?中世において右図で表されている地域の住民が「ケルト人」として一体的な民族意識を持っていたとは考えられていない。そのため歴史学などでは「ケルト人(Celts)」という言葉は使わず、「ケルト系(Celtic)」という言葉を便宜的に使っている


引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2008年02月04日

伊豆大島

一度行ってみたいっす!

伊豆大島(いずおおしま)は、伊豆諸島北部に位置する伊豆諸島最大の島。本州で最も近い伊豆半島からは南東方約25kmに位置する。大島と名のつく島は日本各地にあるが国土地理院では伊豆大島と表記する。面積は91.06km?。行政区域は、東京都大島町である。

大島は伊豆大島火山と呼ばれる水深300?400mほどの海底からそびえる活火山の陸上部分であって、山頂火口のある三原山は1777年ごろの安永の大噴火の際にカルデラ内に出来た中央火口丘である。数多くの噴火の記録が残っているが、最近では1912年?1914年、1950年?1951年、1986年に中規模以上の噴火があり、特に1986年の大噴火では全島民が避難した。また、この期間中にはしばしば小規模な噴火を起こしており、1957年の噴火では死者が1名出ている。三原山の最高峰は三原新山と呼ばれ、標高は764m。

2007年、日本の地質百選に選定された。

古期火山群
伊豆大島ができる前には岡田火山、行者窟火山、筆島火山があり北海岸から東海岸にかけて露出している。岡田火山は岡田港の西から乳ヶ崎にかけての海食岸に断続的に露出し主に玄武岩溶岩流と火砕岩の成層構造とそれに貫入する岩脈からなる。行者窟(ぎょじゃのいわや)火山は東部海食岸に露出する2・3枚の玄武岩溶岩からなる。筆島火山は行者窟火山の南の海食岸に露出し玄武岩溶岩流と火砕岩の交互とそれに貫入する多数の岩脈からなる。筆島は筆島火山の主火道内の強固な玄武岩溶岩が海食に耐えて残ったもの。これらの火山群は鮮新世末?更新世に活動したと考えられているが詳しい活動年代はわかっていない。
伊豆大島
伊豆大島の活動はカルデラ形成前の先カルデラ期とカルデラ形成後の後カルデラ期に分けられる。先カルデラ火山の活動は4?3万年前の海底噴火で始まり玄武岩の溶岩流で山体を形成した。7,800年ほど前に山頂でマグマ水蒸気爆発が起きて山頂部にカルデラを形成し中央火口丘の活動、つまり後カルデラ活動に入った。

明治になると、1882年(明治15年)に秋広平六が西洋帆船を建造し、本土との往来などに使われた。1897年(明治30年)には相陽汽船が伊東(現・静岡県伊東市)との間で航路を開き、翌年には同航路で実業家・杉本が和船の運航を始めた。1900年(明治33年)に逓信省は杉本と契約し、郵便輸送を開始した。なお、当時の鮮魚や畜産品などの貨物輸送は島民の船で島内の元町港や波浮港から東京・横浜へ直接向かった。

1906年(明治39年)には東京湾汽船が大島・伊東間に定期航路を開設し、翌年には東京?大島航路や東京?大島?利島?新島?式根島?神津島航路が命令航路となり、大島への寄港回数が年間96回以上となった。定期航路が整備されると和田三造や坂本繁二郎中川一政村山槐多らの著名人や芸術家が来島し、島を題材にした作品も残された。また、1928年(昭和3年)に東京との間に日航便が就航し、同年には野口雨情作詞・中山晋平作曲の波浮の港の歌が流行したこともあって観光客が増加した。1931年(昭和6年)には三原山の砂漠(溶岩原の通称)にロバやラクダが導入され、1935年(昭和10年)に大島自然動物公園(現・都立大島公園)が開園している。

横浜開港に伴う食肉需要の増加で島の放牧馬、牛、山羊が乱獲されて一時はほぼ絶滅したが、その後は肉牛の生産が活発になった。さらに明治30年代に乳牛・酪農が主流となり、1926年(昭和元年)の島内の飼育乳牛頭数は1,200頭にのぼっている。また、江戸時代末期に生産を解禁された炭は、従来の主要な商品だった薪とともに島の有力産業に成長した。この他、島内では古くから灯・整髪・食用に用いられた椿油は明治以降に機械油や整髪油として生産が増加した。1916年(大正5年)の島の産品は一位から順に海産物、牛酪、薪、炭、椿油となっている。

インフラ面では1872年(明治5年)に野増で初の小学校が開校し、1875年(明治8年)に新島村と波浮で郵便局が開局した。1902年(明治35年)には下田(現・静岡県下田市)と大島の間に海底電線が開通している。1916年(大正5年)には元村と野増村で伊豆諸島で初の電灯が設けられ、1927年(昭和2年)には岡田、泉津、波浮港、差木地で送電が始まった。また、1931年(昭和6年)には島内で、1934年(昭和9年)には本土との間で電話が開通した。、1933年(昭和8年)に大島六か村自動車道路が作られると、1935年(昭和10年)には島内でバス、トラックが運行されるようになった。なお、1940年(昭和15年)には伊豆諸島で最初の接岸桟橋を持つ岡田港が竣工した。

第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)には小笠原諸島への軍事輸送のために島内に送受信所が設置され、海軍第二魚雷艇特攻隊の中間基地として波浮港が接収された。また、1945年(昭和20年)6月には本土決戦に備えて第321師団が編成されている。ほとんどの民家が部隊によって接収され島民は集団疎開を命じられて一部は長野県へ疎開したが、輸送船が足りずに命令は撤回された。

戦後の1946年(昭和21年)1月29日に占領政策から伊豆諸島は日本の行政から切り離されることになり、島民の中には暫定憲法を制定する行動もあったが、3月22日に方針が変更されて分離は行われなかった。その後、1965年(昭和40年)1月11日には元町大火があり、全焼418戸、罹災408世帯の被害が出て災害救助法が適用された。1986年(昭和61年)に三原山が噴火した際、全島民が1か月にわたって島外避難した。
(以上、ウィキペディアより引用)

けど火山が気になりますね。。

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